かつらぎの歴史とゆかりの地をご紹介するページです。

昭和4年1月『かつらぎ』創刊当初、奈良県高市郡八木町字北八木の多田千次(俳号桜朶)宅が編集・発行所でした。

昭和5年2月に編集長多田桜朶の辞任により、発行所は同じ北八木町の河合源七郎(俳号子丑)宅へ移され、ここでかつらぎの礎が築かれました。

編集所は耳成村の清水澄南が引き継ぎましたが、昭和8年9月大阪市京町堀上通4丁目の青畝宅へ移っています。大阪の青畝宅へ子丑は句稿や原稿を受け取りに行き、俳誌発行を続けました。

昭和16年4月子丑病臥の為、発行所は奈良市芝辻町の藤本一誠方へ移転しました。戦時中の俳誌統合により昭和17年11月に『飛鳥』と名前を変えましたが、実質的に発行は藤本一誠方で行われました。

戦後『かつらぎ』の名称は復活され、昭和21年3月に甲子園四番町の青畝宅が編集・発行所となりました。

河合子丑は昭和20年10月26日没。蔵のある邸宅は現在も北八木町に保存されています。

その後編集所は、昭和48年12月に宝塚市野上の森田峠方へ発行所から分離されましたが、峠が二代目主宰に就任して編集・発行所が一つになり、現在に至っています。

登録有形文化財・古民家撮影スタジオ
河合源七郎家住宅奈良県橿原市北八木町

三代目源七郎が生まれ育った本住宅は建築当時のまま維持されて参りました。

私たちは「生家の姿を後世に伝えたい」という父の思いを受け継ぎ地域の風土と文化の中でこの住宅をどのように活かせるか模索を始めました。

明治の時代にタイムスリップしたような空間を感じてください。
四代目 河合源七郎(河合純)

河合源七郎家住宅

商業の中心地「札の辻」の北に建つ

かつて難波・飛鳥の都を結んだ「横大路」と、藤原京・平城京を結んだ「下ツ道」との交差点は江戸時代「札の辻」と呼ばれ、商業の中心だった。今も周辺には歴史的な町並みが生活の場として残されており、本宅もその一端を担っている。

魅力ある明治の様式が色濃く残る

明治20年代後半に町家として主屋を建築。その後、大正時代に離れ座敷や茶室が増築された。出桁造・虫籠窓・三和土の土間など、大和の商家造りの代表的な建築様式が当時のまま残されている。欄間や格子などの細部にも気品が漂う。

日本有数の俳誌『かつらぎ』の草創期発行所

本宅は、高浜虚子・阿波野青畝を師系とし、創刊90年を越える俳誌『かつらぎ』の初期の発行所としても活躍。虚子の短冊が今も残る。二代目と三代目の源七郎もそれぞれ俳名を子丑(しぎゅう)、子峰(しほう)として俳句を嗜んだ。

青畝文学館

高取町にある青畝文学館は、土佐街道沿いの川西旭彦氏の自宅に、郷土の文化人阿波野青畝にまつわる資料を展示しています。
高取町観光案内所夢創館へご連絡下さると、観光ガイドの案内でご覧頂けます。

土佐街懐古館・青畝文学館